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Dentsu Design TalkNo.61

「社会のために」は、ブームじゃないぜ!(前編)

2015/12/04

電通ビジネス・クリエーション・センターの並河進氏と、「風とロック」の箭内道彦氏。形は違えど、東日本大震災以降がむしゃらに復興支援の活動に向かってきた2人は、やがてお互いを知るようになり、昨年はNHK紅白歌合戦の仕事を、今年は福島県のCMを2人で作るなど、最近は共に仕事をする機会も増えている。
「社会のために」という視点を持って、広告に携わりたいと考える若い人は増えている。しかし、その思いを仕事にすることはまだまだ難しいのが現状だ。そんな中、「社会のために」を仕事にしている2人が、その出発点や、自分と仕事と社会の関係を語り合った。その前編をお届けする。

(左から)並河氏、箭内氏

 

“ソーシャルのスイッチ”が入った瞬間は?

並河:箭内さんと初めてお会いしたのは2012年で、それ以来いろいろとご一緒させていただいています。今日は、震災から4年がたち、世の中の空気もだんだん変わってきたこのタイミングで、「社会のために」を仕事にすることについて箭内さんとあらためてお話しできればと思っています。

箭内:今は当たり前のように「社会貢献」と言われるようになったけれど、実は僕自身はなかなかそれが自分ごとにならなかったんです。音楽プロデューサーの小林武史さんが「ap bank fes」(2005年開始)などでエコ活動を推進していた時期も、僕は全く分かってなくて、いつ自分の中のエコの意識にスイッチが入るんだろう?って思っていたんですね。

それが変わったのは、確か2010年くらいの講演で「罪滅ぼしと恩返し」という話をした頃だと思います。これまで自分のことだけを考えて生きてきたけれど、40歳を過ぎ、少しは人の役に立って死なないと後味が悪いと思うようになった。それが「罪滅ぼし」。それから、自分を育てた人や故郷に何か返す責任があるというのが「恩返し」。そうやって徐々に変わってきた感じです。

並河:「ソーシャルグッド」や「ソーシャルデザイン」という言葉が出てきた時は、どう思われました?

箭内:正直、ピンとこない感じでしたね。また広告業界に横文字が出てきたぞって感じで。ただ、博報堂に入る時、僕は重役面接で「広告の力で人を幸せにしたい」と言っていて、そもそもそういう気持ちは自分の中にもあったんだと思います。
でも、「賞がとりたい」「ほめられたい」って気持ちや、他の人と比べられる苦しさにだんだん染まっていって、自分でも見えづらくなっていたけれど。

並河:いま、電通に限らずですが、若い子でそういう気持ちを持って入社する人はたくさんいます。でもいざ会社に入るとなかなかチャンスがなかったり、許されなかったり。僕自身もそうでした。まだ仕事もなかった若手の頃は、夜な夜な一人で企画書を書いていました。そのうちの一つが、食の構造を変える「Food is 風土」プロジェクト。これが当時の企画書です。これからの広告は、世の中の意識や構造をよい方向に変えていく旗印になるんだ、という思いを込めて作ったものです。

箭内:コピーはあまりうまくないね(笑)。でも、憎めないよさがあるね。

並河:(笑)。この企画書、周りの先輩は相手にしてくれなかったけど、白土謙二さんだけが「君は今まで電通に使われる人間だったかもしれないけど、これからは電通を使う人間になるんだ」と言ってくれました。その一言で、頑張って来られたんですよね。

箭内:そういう言葉の遺伝子は一生消えないし、その言葉を後輩に言えた人は一生師匠になるんだよね。黙っていたら誰も自分を見つけてくれないから、自分で手を挙げていかないと次の扉は絶対開かないのは確かです。それで、並河さんはなぜ「社会」の方に行こうと思ったの?

並河:当時は電通社内を見回しても、NPOやボランティアの領域の仕事は誰もやっていなくて、この領域が空いている!と思ったんです。それで同じく空いていた「アイドル」と「ボランティア」を組み合わせた「ボラドル」をプロデュースする企画など、いろいろとやってきましたが、5年くらいは全く芽が出ませんでした(笑)。

ようやく形になり始めたのは、クライアントと一緒に企画をするようになってからです。僕は箭内さんもそうじゃないかと思うんですが、どうですか? 一緒に仕事をしていると、よく「クライアントという言い方をやめよう」と言いますよね。

箭内:独立して、いろんな人たちと仕事をして、「得意先」「クライアント」「お客さん」といろいろな呼び方があることを知ったんですよ。でも、どれも自分たちの方から距離を作っているようで、自分が呼ばれる立場だったら、「お客さん」なんて嫌だと思ったんです。だから僕の仕事の時はそういう言い方はやめて、名前を呼ぶようにしてくださいねと言ってます。

並河:それはクライアントと一緒に作っているということですよね?

箭内:そうです。

 

クライアントと出演者とも一緒に作っている

並河:箭内さんのお仕事が世に出てきたとき、森永ハイチュウの浜崎あゆみさんが出ているCMシリーズも、タワーレコードの「NO MUSIC,NO LIFE.」も、企画どうこうよりも明らかに作り方が違うと感じて衝撃的でした。タワーレコードの広告に出てくるアーティストは、広告なんだけどメディアに出ている感じがします。

箭内:「遊び場」って僕は呼んでいます。楽しいことをやって帰ってもらう場所ですね。

並河:最初からそういう場所を作ろうと思っていたんですか?

箭内:全くそんなことはなくて、最初の頃は、出演の依頼もよく断られていました。
でも、2年、3年とやっていくうちに、出る人が前の人より面白いものを作りたいと言い始めるようになった。自動的に面白くなる仕組みができていったんです。この仕事で分かったのは、メディアを作ると、人が「出してください」と言ってくれるということ。メディアを持つってすごいことなんだなと、ここで感じたことが、その後「風とロック」のラジオ番組を持つことにつながってます。

並河:僕とクライアントとの関係がすごく変わったのは、2008年の王子ネピアの「nepia 千のトイレプロジェクト」からです。王子ネピアの宣伝トップの方が一緒に飲んでいた時に「便所紙屋にももっとできることがある!」とおっしゃって。そこから東ティモールのトイレづくりを応援するプロジェクトを立ち上げました。今でもこのプロジェクトは続いています。それ以降、いろいろなプロジェクトをクライアントと立ち上げるようになっていった中で、2011年に震災が起きた。当時の活動についてもお聞きしたいのですが、箭内さんは、震災前から故郷福島の応援をされていましたよね?

 

名誉欲を捨てるクリエーティブはすごく難しい

箭内:もともと、僕は福島が嫌いだったんですよ。「福島には帰らない」とライブで歌っていたくらい。ところがその様子がテレビで放映されて、それを見た福島の地方紙、福島民報の人から連絡が入ったんです。「福島を嫌いだと言っている人にこそ、今福島を元気にしてほしい」と言って、115周年記念の特集広告企画を頼んできた。
そこで書いたのが、「207万人の天才」というコピーです。207万人というのは当時の福島県の人口です。福島の人はみんな何らかの才能を持っているのに、それを隠したり遠慮して表に出さないでいるんじゃないの?というメッセージを、紙面や福島のライブイベントを通じて発信していったんです。

だから、震災の時にまず思ったのは、自分の家族や友達が住んでいる町で大変なことが起きたというだけじゃなく、そのイベントに来てくれた何千人もの人たちがきっと苦しんでいるということ。そう考えたら、放っていられないでしょう? 猪苗代湖ズの「I love you & I need you ふくしま」は、とにかく募金を集めないといけないという気持ちで、震災直後の3月17日からレコーディングをして3月20日から配信しました。

並河:あの時は、みんな自分ができることを必死で探していましたよね。

箭内:僕はそれも“被災”と呼んでいて、全国の人たちが無力感に包まれ、苦しんでいたと思います。

並河:僕はあの日、被災地で生まれた子どもたちがいることを知って、その子たちの写真を撮影して映像にする「ハッピーバースデイ3.11」というプロジェクトを立ち上げました。

箭内:この映像は無欲じゃないと撮れないよね。「俺はこんなすごいものを作った」とか、「これで賞をとりたい」みたいな欲があると、こういう映像はすぐ気持ち悪くなってしまう。ただ、この映像には「生きていてほしい」「伝えたい」という欲にはあふれていると思います。こういう名誉欲を捨てるクリエーティブってすごく難しいなと思う。

 

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企画プロデュース:電通イベント&スペース・デザイン局 金原亜紀